天文18年(1549年)、フランシスコ・ザビエルが日本に機械式時計を持ち込みました。しかし西洋の時計は定時法用に作られたもの。不定時法の日本で使うには根本的な改造が必要でした。西洋時計から和時計が生まれるまでの歴史を辿ります。
ザビエルが日本にもたらした機械式時計
フランシスコ・ザビエルは、キリスト教の布教を目的に日本を訪れました。彼が周防国(現在の山口県)の大名・大内義隆への献上品として持参したものの中に、機械式時計がありました。
この時計はヨーロッパの定時法に基づいて設計されたものです。一日を24等分し、常に一定の速度で針が進む仕組みでした。当時の日本では不定時法が使われていたため、この時計をそのまま使うことはできませんでした。
西洋時計と不定時法の矛盾
西洋の機械式時計と不定時法が相容れない理由は明白です。定時法の時計は常に同じ速度で動きますが、不定時法の一刻は季節と昼夜で長さが変わります。一定速度で動く時計では、変動する時刻を正しく指し示すことができないのです。
この矛盾を解決するために、日本の時計職人たちは西洋時計の機構を研究し、不定時法に対応する独自の改良を加えていきました。こうして生まれたのが「和時計」です。
和時計の誕生――日本独自の改良
和時計の職人たちは、不定時法に対応するため主に2つのアプローチを考案しました。
ひとつは棒てんぷの分銅を動かして時計の速度自体を変える方法です。一挺天符から二挺天符への発展により、昼夜の自動切り替えが実現しました。
もうひとつは文字盤の割駒を動かす方法です。時計は定速で動かしつつ、目盛りの間隔を調整して不定時法に対応させました。
いずれの方式も、西洋には存在しない日本独自の技術革新です。不定時法という独特の時法が、世界に類を見ない時計技術を生み出したのです。
和時計の普及と限界
和時計は大変高価な品であり、所有できたのは大名や豪商など一部の富裕層に限られました。一般の庶民が時刻を知る手段は、もっぱら時の鐘でした。
それでも和時計は、日本の技術力の象徴として高く評価されました。櫓時計、枕時計、印籠時計など、用途に応じた多彩な形態が生まれ、装飾性も高められていきました。機械としての精度と美術工芸品としての美しさを兼ね備えた和時計は、日本文化の粋と言えるでしょう。
和時計のデジタル再現を体験する
ザビエルが持ち込んだ定時法の時計と、それを不定時法に作り変えた和時計。当サイトの「浮世之刻」では、和時計と現代時計を並走させることで、定時法と不定時法の違いを視覚的に体感できます。

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