明治5年(1872年)11月、政府はわずか1か月後に暦を変えると布告しました。数百年続いた不定時法は廃止され、太陽暦と定時法の時代が始まります。なぜ改暦はこれほど急だったのか。明治の改暦の経緯と、庶民が受けた影響を解説します。
明治の改暦はなぜ行われたのか
明治の改暦は、近代化を急ぐ明治政府にとって避けられない施策でした。西洋諸国との外交・貿易において、暦と時法の統一は実務上の必須事項だったのです。
鉄道の運行も大きな理由です。明治5年に新橋〜横浜間で鉄道が開業しましたが、不定時法では季節ごとに時刻表を作り直す必要があります。定時法への切り替えは鉄道の安定運行に不可欠でした。
改暦の驚くべきスケジュール
明治の改暦で最も驚くべきは、そのスケジュールの急さです。改暦の布告が出されたのは明治5年11月9日。そして旧暦の明治5年12月3日が、いきなり新暦の明治6年1月1日になりました。
つまり明治5年の12月はわずか2日で終わり、突然新しい年が始まったのです。国民に与えられた準備期間はたった23日。これほど性急だった背景には、財政問題がありました。旧暦の明治6年は閏月がある13か月の年で、官吏の給与を13回払わなければなりません。太陽暦に切り替えれば12か月で済む。改暦は経費削減策でもあったのです。
不定時法の廃止と庶民への影響
改暦とともに、不定時法も公式に廃止されました。明治6年1月1日から、一日は24時間、1時間は60分という定時法が採用されます。
庶民にとって最大の変化は、太陽のリズムと時計のリズムが切り離されたことです。不定時法では日の出とともに「明け六つ」、日の入りとともに「暮れ六つ」が訪れ、時間と自然が一体でした。定時法では季節に関係なく午前6時は午前6時。冬の暗い午前6時に起床を強いられる生活は、大きな戸惑いをもたらしました。
農村部では改暦後もしばらく旧暦と不定時法を併用していたという記録があります。生活リズムが太陽に依存していた農民にとって、定時法への移行は都市部以上に困難だったのです。
和時計の終焉
改暦により、不定時法に対応した和時計はその役目を終えました。精巧な二挺天符も、割駒の文字盤も、定時法の世界では不要です。和時計職人たちは西洋式の時計製造に転身するか、廃業を余儀なくされました。
しかし和時計の技術は消えたわけではありません。その精巧なメカニズムは現在も博物館や個人コレクションに残り、日本の時計史における独自性を世界に示しています。
改暦から150年――不定時法を振り返る意義
明治の改暦から150年以上が経ちました。定時法のおかげで社会は効率化されましたが、一方で人間の体は今もなお太陽のリズムに同調しようとしています。
当サイトの「浮世之刻」で不定時法の時間を体験すると、改暦で失われた「太陽と一緒に呼吸する時間」を少しだけ取り戻すことができるかもしれません。

コメント